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松本 暁(まつもと あかつき)
詩人 utanoha代表

<ライブ情報>

・2014年4月13日(日)
■会場
東京倶楽部千駄ヶ谷店
■時間
open 13:30
1st stage 14:00
2nd stage 15:20
■料金
2100円(2ドリンク込み)
■出演
松本暁(詩の朗読)

・2014年4月20日(日)
■会場
中野aman
■時間
start 17:30
no charge
■出演
鈴木純、松本暁、長男ズ、廣瀬恭平、theharerock and more

・2014年5月11日(日)
デンデケプロダクション Vol.8
■会場
渋谷ラストワルツ
■出演
重力2、ランランズ、ヨソハヨソー、Swingy×松本暁、大谷彩子、grinramma




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中山聡 詩集「東京」
UTP-0002
¥500



zine "works"

これまでの活動が見れます。


興味をもってくれたかたは、
info@utanoha,jpまでメールください。


カテゴリ:日々のこと( 108 )
今日も一本の線を引くことから始めた
このあいだ、しずかのいとこのカズくんが遊びにきた。
三人で「何も見ないでだれがちゃんと描けるか対決」をした。
カズくんは、なんだか自信ありげだった。
しずかもわりと早く書きあげた。
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今回のお題はいったいなんなんだろうか。。
耳があって牙がある生き物のようだけど。。


答えはスティッチ。
今回も勝者なき争いになってしまった。

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思い描いたことを実現するのはやっぱりむずかしいね。
アニメのキャラクターさえ書けないんだから
自分の夢や目標をかたちにすることは
とってもむずかしい。

こうやったら世の中がよくなるんじゃないか、とか
戦争をなくすにはどうしたらいいか、とか
ぼんやりと想うことと、そのイメージを具体化するために、
実際に生活のなかで一本一本の線を引くことは、
まったく別の力が必要になってしまう。
でもスタート地点はいつも変らない。

自省を失わずに愛情をこめつつ、
たとえ迷いながらでも線を引く姿は美しいなあ。
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by matsumotoakatsuki | 2010-01-19 23:09 | 日々のこと
思い描けてるのに実現できないこと
このあいだともだちが家に来たとき、
「何も見ないでだれがちゃんと描けるか対決」をした。
お題はトトロ。
となりに住んでるかもしれないあいつだ。たぶん。
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頭の中にはイメージが浮かんでるのに、
なんでそれをなぞるように描けないんだろうか。。
なんかさらに不思議なやつが一匹まじってるし。。

ペンを動かし始める前に、トトロの細部まで
入念に思い返したはずなんだけど。
思い描いたゴールには、その道筋さえも見えてる気になっても、
なかなかたどりつけないなあ。
細かいところまではつかめてないことのほうが、実際は多いのかも。

だれが一番うまく描けたかをめぐって、参加者のあいだに
はげしい戦いが勃発したことは言うまでもない。。

歴史が美しいことをくり返して、
今年がいい年になるようにがんばります!
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by matsumotoakatsuki | 2010-01-08 00:28 | 日々のこと
明けましておめでとうございます
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ついにうまれて初めて経験する2010年がやってきました
2010年の中で1月1日がやってくるのも
一回きりですね
そんな毎日が12月31日まで、毎日続くんだなあ
人生の幸せレベルが、うまれて初めての目盛りに達するように
毎日がんばって楽しく生きていけたらいいなあと思います

お体にはくれもぐれも気をつけてすごしてください
みなさんにとって今年がいい年でありますように
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by matsumotoakatsuki | 2010-01-01 20:35 | 日々のこと
ひとりの人間が世界を変えられると断言できる根拠について
壁に映った忍び寄る影の服はホントは何色だろう?→→
(チョコレートといってひとくくりにするけど、
KIT KATやTOPPOにもいろんな種類があるよという話の続き)

以前部屋探しをしたとき、石神井公園で一つの部屋を内見しました。
商店街に面したベランダがある部屋で、間取りは3LDK。
広いのはいいのですが、部屋にいる間中ずっと、目の前の電柱からか、
隣にたってるごはん屋さんのエアコンの室外機か、音源はわかりませんが、
ジーなのかブーンなのかうっすらとモーター音のようなものが聞こえ続けでした。
毎日こんな音がなってる部屋で生活するのはしんどいなあと思い、
エイブルの営業の方に丁寧にお断りしました。家賃もちょっと高かったです。
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           (写真と本文は無関係です)

でもこういう機械音は、音量は小さいとしても、耳をすませばわりと
どこででも聞こえているもので、今住んでる部屋でも、
電化製品をつないでるコンセントのあたりから、ジーだかブーンだか聞こえてきます。
コンセントを抜けばやむので、電気と機械がなにか関係してるんだろうなと思いました。

電気と機械がなにか音を立てるのだとしたら、僕らの生活はまさに360度を、
そのジーだったりブーンだったりする音に取り囲まれてることになります。
耳を澄まさないと聞こえないとしても、それは意識に昇らないだけで、
鼓膜はその空気の振動をキャッチしつづけているはずです。おそらく細胞も。
それが音波であれ、電磁波であれ、波形のエネルギーが絶え間なく体に対して
伝導していることには変わりなく、表面に現れることはないとしても、
なんらかのかたちで体に影響を与えているのではと思います。

考えてみると、これら以外にも、波型のエネルギーは
僕らの生活環境を取り巻いています。例えば、光は明滅しますし、
温度や湿度も上下動し、空気は絶え間なく流動しています。
体はそれら波型のエネルギーを、人工的なものから自然のものまで
様々に浴び続けています。

同時に体内では、心臓が脈拍とともに血流を送り出し、
ニューロンを電気がかけめぐり、体温が細かな上昇と下降を繰り返しています。
人体は波型のエネルギーを発生させる装置を内部に持ってるようなものです。
ひとの体は水と電気の柱みたいなものなので、波型のエネルギーに対して
とても敏感な仕様でできているはずです。
人体は繊細な波の送受信機だと言えます。

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波理論(Wavenergy theory)とは、
自分がどのようなエネルギーにさらされているか、あるいは発しているかを知り、
できる限りいい感じのエネルギーの波を受け取ったり発したりしたいよなあ、
という考え方です。

木造の家とコンクリートのマンションでは、当然周囲を流れるエネルギーの
吸収と反射の効果が違うはずなので、住んでいる人へも相応の効果が
出ると思います。毎日機械の騒音にさらされている生活と、木の葉の
そよぎや鳥の声に取り巻かれている生活とでも、当然両者の違いは
出るでしょう。それは体が音として浴びる波型エネルギーに違いがあるからです。
感情の波という言葉がありますが、感情の変化は体内の電流の変化でも
あるわけですから、当然体が発する波のかたちもかわるはずです。
他人のイライラが伝染するのも、相手から発される波の変化を、
こちらの体が受け取っているからだと思います。逆に親しみや
信頼の気持ちは、やわらくおおらかな波を相手に与えるでしょう。

水にやさしい言葉をかけると結晶の形が変わるとか、
植物は一度自分に対して乱暴な行い(手折る、引き抜くなど)を働いた人を
記憶するとか、そういう話を聞くと、確かめたことはないですが、
ああ、あり得るかもなあと思います。
水は波の影響を強くうけるものだし(というか波そのもの)、
植物が自分に向かってくる波型のエネルギーを、
人間以上に微細に感覚することができてもなんの不思議もないです。

a0145596_17171671.jpgオーストラリアにハンマーオーキッドという
蘭が生息しているそうです。その蘭は、
コツチバチという種類のハチによる受粉を行うために、
色もかたちもコツチバチのメスそっくりの
花びらを一枚つけます。
a0145596_17173296.jpg擬態に錯覚したコツチバチのオスが、
交尾しようと花にとまったとき
体に花粉がつき、そのオスが
あちらの花、こちらの花と
飛び回ることによって受粉が
行われるという、かなりびっくりな
生態を持つ蘭です。
これもなぜ植物がハチの姿を真似られるのか、
考えれば考えるほどわからなくてなんだかザワザワしてきますが、
ハンマーオーキッドがコツチバチの発する波型エネルギーを感覚し、
その波のかたちから、エネルギー源であるコツチバチの姿を認識すると
考えると、可能なようにも思います。
磁場が植物の発育に影響をあたえることはすでに研究されていますし、
音波や磁場をキャッチする能力が高い動物は無数に存在します。
ホオジロザメは、獲物が生んだ磁場の乱れを察知し捕食に役立てるそうです。
ひとも、彼ら動植物と同じとまでは行かなくても、それらのエネルギーを
感知する機能を体内に宿しているはずだと、波理論は考えます。

波理論について考え始めたのは、
詩(とその朗読)が体にあたえる影響について考えたときだったんですが、
ちょっと調べてみると、現代物理学も同じようにエネルギーを波として
捉えているようです。物理学によると、空間にはそれを満たす
「場」というものが存在し、エネルギーはその場を波のように伝わっていく
そうです。そして、物質の根本であると言われている素粒子は、
その「場」にエネルギーが集中した状態のことであるそうです。
素粒子というのは物質ではなく、波型エネルギーの一つの
隆起のかたちであるようです。
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(突起部分が素粒子のイメージ。網目状の「場」を波型のエネルギーが伝わる。)

有も無もこの世の存在はすべてがエネルギーの状態であるという
この物理学の現在地点は、仏教における「空」の概念を思い起こさせ、
かなり面白いですが、前述した、ひとはエネルギーの送受信機であるという
波理論の考え方にも援用できます。存在の根本の状態がエネルギーであれば、
そのかたちである波に人体が反応するのは当然過ぎるほど当然だと思います。

エネルギーについて考えていると、もっとも根源的なエネルギーのかたちは
どういうものだろうか、という疑問が生まれてきました。
そこで考えられるもうひとつのエネルギーのかたちは、「円」だと思います。
太陽とその運行、輪廻転生、永遠の象徴であるしっぽを噛んだ蛇、
生命の循環のモデル。。。
人類は歴史上、円環的エネルギーを畏れ、祈りをささげ続けて来ました。
僕は、「波」と「円」のふたつのうちどちらが根源的なものなんだろうかと
悩むようになりましたが、物質の根源を波でもあり粒子でもあると言う
現代物理学を知って、少しヒントがもらえた気がしました。今は漠然と、
波でも円でもあるエネルギーが存在するということなんだろうなと思ってます。
ていうか、そういうエネルギー以外のものはこの世には
存在していないのかもしれないですね。

前回の記事で書いたように、プラスとマイナスのイメージの交響による
想像力の働きも波型のかたちを取ると言えます。
ということは、想像力を働かせることが、体に直接の影響を与えるということになります。
感知できないほどの極小な波でも、ちりつもでその影響は蓄積されます。

大江健三郎は著書「新しい文学のために」で、想像力とは心のなかで
開き拡がってゆくイメージの爆発であると書いています。
想像力によって世界を新鮮に捉え続けることによって、
「僕らは感情に希望を与えられ、人間たろうとするわれわれの決意に特殊な
逞しさを与えられ、われわれの肉体的生命に緊張をもたらされる」と。
また、ウィリアム・ブレイクはこう言っています。
「想像力は状態ではなく人間の生存そのものである。」
ファッション評論家のフランソワーズ・モレシャンは以前ある雑誌に
「想像力に権力を!」という短文を書いていましたし、
ある詩人は「唯一信じるべきヒトの本能は想像力だ」と表明しました。

僕らは世界を感覚する時に、波型のエネルギーとして受信しています。
そして心を世界に解き放つ想像力もやはり波型のエネルギーです。

想像力こそがひとが生み出す美しいものの源です。
愛情の反対が無関心であるなら、想像力と愛情は同じものだと言えます。
それは自分を回路にして世界につながるための出発地点です。
なぜなら想像力はこの世界のエネルギーの根源と同じ姿をしているからです。

波と波は混じりあって、さらに大きな波を生み出します。
生きるということはその波を発することであり、どんなちいさな波だとしても、
大きな波のうねりに干渉と共振を生んでいるはずです。
生きることはその波と一体化しつつ、その波自体に影響を与えることです。
そこにこそ、ひとが世界を変えられると断言できる根拠があります。
生きていること、存在していることそれ自体がその根拠です。



僕らが生まれてこの方やってきたことといえば
世界を変え続けてきたことぐらいだ




以上、長文にお付き合いいただきありがとうございました。
みなさんがすこやかに年末を迎えられ、
来るべき新年がいいものでありますようお祈りしています。
みなさんよいお年を!

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<関連記事>
→→マイナスとプラスのファンタジー
→→壁に映った忍び寄る影の服はホントは何色だろう?
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by matsumotoakatsuki | 2009-12-27 23:41 | 日々のこと
壁に映った忍び寄る影の服はホントは何色だろう?
マイナスとプラスのファンタジー→→
(ブレンダン・フレイザーの首が太すぎて、
ガンダルフのイアン・マッケランは当たり役だと思う話の続き)

言語学者の外山滋比古は、くわしく描かれないことが逆にかき立てる想像力について、
「それは二点のあいだの欠如を補充しようという、
より普遍的な人間の理解作用の一つのあらわれ方である」と書いています。
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さらに、外山さんはその描かれない空白こそが、ものごとの理解に重要だと言います。
たとえば、片思いの相手を週末のデートに誘ったとします。
すると相手は「誘ってくれるのはうれしいんだけど。。」
と言いづらそうに口ごもります。その「。。」がこの場合の空白です。
大人なら言外の意味を察知しなければいけません。
「ああ、なにか大事な用事があるんだな」と。
彼女(彼)が「またそのうち次の機会に。。」とあやまってきたら、
「気にしないで。また誘うね」と一旦引き、いつか巡ってくる
彼女(彼)が空いてる日をおだやかな気持ちで待ってあげてください。
たとえその日がいつまでもやってこないとしても。

ひとは言葉と言葉の間にある空白を読み取ることができます。
この言い尽くされない空白は、ことさら口ごもらなくても、
すべてのものごとに存在しています。
僕のパートナーのしずかは、よく麦チョコやKIT KAT、TOPPOといった
色々なお菓子をおやつにもぐもぐ食べています。

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おやつの時間は生活のなかに「断片的で、点在しているに
すぎない」(外山滋比古)し、食べている商品の種類も様々なのに、
それを毎日眺めている僕は、
ああ、しずかはお菓子のなかでもチョコレートが好きなんだなぁ、と
彼女の好みに一貫性を発見します。
ひとは、空白のなかにあるいくつものばらばらの点をつなぎあわせて、
ひとつの意味の線を作り上げることができるようです。

こういった意味を結びあわせる能力は「素朴な話であるが、
人間の眼がマバタキをしていても、ものが切れ切れになって見えたりしないで、
つながって見えること」にもあらわれていると外山滋比古は言います。

つまり僕らはものごとを空白と共に把握できないと、デートの誘いを
断られたことを逆恨みし、ひとの食べ物の好みさえ覚えられず、
まばたきをするたび、ストロボがたかれたように目の前がチカチカして
コマ送りのように見えてしまうことになります。
空白の理解がものごとの理解に欠かせないことは、外山さんによると
「われわれの理解がつねにマイナスの面をふくんでいて、
決してプラスの連続ではないことを象徴している」そうです。
言い換えると、無と有の響きあいにより
僕らの認識というのは成り立っているようです。

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ここまできてやっと前回の記事とつながるんですが、
作りこまれたドラクエよりも、スッカスカのウィザードリィのほうが想像力を
強く刺激してくれる理由は、ひとが世界を感覚するやりかた
より深く根ざしているからなのかなぁと思います。

プラスの力とマイナスの力が繰り返されながら
異なる点同士をある一定の流れで結んでいくというかたち、
それは波の動きに似ています。
外山さんも「―うねり上げ、高まり、やがて、崩れ、また、つぎの波の底部になる―」
という波を、「自然の中にある起承転結のリズム」と呼んでいます。

a0145596_14384964.gif(画像はイメージです)


プラスとマイナスの交響により拡大していく想像力と
それが持つ波型のエネルギーの流れ。
ここからがいよいよ本題の、僕がしずかに、ことあるごとにくどくどしく語り、
いいかげんうんざりされながらも提唱している生命エネルギー理論、
波理論についてです。

でも、長くなったので、
次回(待機電力しかかかってない時でも
電化製品たちは黙ってるわけじゃないぜという話など)に続きます
→→
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by matsumotoakatsuki | 2009-12-20 21:49 | 日々のこと
マイナスとプラスのファンタジー
このあいだ、ひさしぶりにロードオブザリングを観ました。
3部ともエクステンデッドエディションです。

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一時期、好きな映画は?と聞かれると、
「ハムナプトラ2とロードオブザリング!」と答えてました。

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わぁすごいなあと思うような、
びっくり映像が好きです。

でも僕の中で、ハムナプトラ2とロードオブザリングは決して同列には並びません。
僕はロードオブザリングの原作、「指輪物語」が大好きだからです。

ハムナプトラシリーズは見るたびに、
主人公のブレンダン・フレイザーは首が太すぎるなぁとか、
顔つきがちょっと脂っこすぎるかもしれないという気持ちにもなりますが、
基本的にびっくりと笑い以外の部分では、
僕の人生には関わってきません。

「指輪物語」はちがいます。
小学生のころからの付き合いです。
なので、映画化されたロードオブザリングを初めて観たときは、
涙が止まりませんでした。
よくぞここまでエネルギーとお金をつぎ込んで映像化してくれた!
という感動です。
小学生のころの自分に見せてやりたかったとも思いました。

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ああ、ガンダルフ本人が出演してくれたんだな、とか、
馳夫さんが実際に踊る小馬亭の酒場に座ってるところを撮影したんだな、とか、
全編そうこれこれと思いながら楽しめました。
映画としては弱点もたくさんありますし、原作との違いも多々ありますが、
それでも全部許そうという気持ちにさせてくれる出来だと言い切れます。
いまのところまだ「あんな映画化ならしないほうがよかった」
という原作ファンには会ったことありません。

でもこうも思います。
映画版は小学生の自分には見せない方がよかったのかもしれない。
なぜかというと、イメージが固定化されてしまう恐れがあるからです。
実際、映画版を観てからは、原作を読んでも頭の中では、
フロドはイライジャ・ウッドだし、レゴラスはオーランド・ブルームだし、
ということになりました。

原作者のトールキンは、挿し絵というものに対して慎重だったそうで、
「『谷』という言葉を読んだとき、
子供は自分の経験と想像力のすべてでその『谷』を思い描く。
挿し絵はその自ら生みだす想像力の広がりを限定してしまう。」
という感じのことを言っていたそうです。
そう言う意味では、映画のイメージ固定力の強さは半端ないものがありますね。
示されないからこそ想像できる面白さ、というのが薄れることになりそうです。

a0145596_1912772.jpgウィザードリィというRPGシリーズがあります。1981年に第一作が発売された、コンピューターRPGの古典といわれるシリーズです。
ドラクエを作ったのは、このゲームの大ファンだった人たちでした。
(写真はファミコン版のウィザードリィ2)


このゲームの最大の魅力は、世界観が丁寧に作り込まれていないところです。
やることといったら3D迷路を延々深く奥へと潜っていくだけ。
ドラクエのような壮大な物語や、FFのような緻密で派手な演出は一切なし。
自分があやつるキャラクターがどんなひとかも、よくわかりません。
だからファンは勝手に想像を広げて楽しみます。
特に設定が決められていないなら自分の好きに決めてしまえ、という気持ちです。
不当にその想像を制限されるような機能を、オールドファンは好みません。

そういえば、言語学者の外山滋比古はその著作「修辞的残像」で、
「われわれは、ものごとが欠けていることを意識すると
それを補おうとする力が本能的に働くもののようである。」と書いていました。
なんだか、あまり親しくない片思い相手の性格や趣味を
あれこれ想像してしまうことに似てますね。

次回(想像力と波形エネルギーの関係などの話)に続く
→→壁に映った忍び寄る影の服はホントは何色だろう?
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by matsumotoakatsuki | 2009-12-19 02:22 | 日々のこと
見えないもの(天然酵母)でもいるんだなぁ
最近、酵母を繁殖させるのがたのしい。
活発に繁殖したところで、それをつかってパンを焼くのも同じく楽しい。

天然酵母をおこすのはわりと簡単で、
果物を切って瓶につめ、水をそそいでおくだけでいい。
最初のころはうまく感覚できなかったけど、要は酵母は
たいていどこにでもひっついてる微生物で、とくに果物に多く住みついてるから、
そいつらをどうにかこうにか増やしてやればそれでよい。

見えないけどいる。酵母たち。

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瓶の中で酵母が増えると、泡がぶくぶくたつ。
瓶の口をあけて軽くかき混ぜると、さらにぶくぶくたつ。
見えないけどいるなと思う。
ものすごくちっさいから見えないけど。

パン生地の中で酵母が発酵すると、生地が二倍くらいにふくらむ。
出産前のクモのおなかみたいにぱんぱんになってる。
あ、元気にやってるな、と思う。見えないけど。

酵母をヨーロッパの科学者が発見したのは17世紀のことだそうだ。
でも、発酵パンは四千年前から作られてた。
ビールやチーズの歴史は軽く六千年を越える。
見えなくてもいることを人類は知ってた。
顕微鏡で目の当たりにすることが知ることじゃない。
見えないけどその存在を信じ、適度な距離感と関わり方を築くことで、
その力の恩恵にあずかってきた。

酵母の代謝のメカニズムが判明しても、
結局生物の存在の根本原理は肉眼では見れない。
ひとには大きすぎて見えないけどそれは存在する。
ほんとは見ることができる。
道ばたに咲く野の花に。踏みしめる土のしたで盛り上がる霜柱に。
ベランダから眺める木立とその上を流れる雲に。
鏡のなかで歯を磨く見慣れた顔に。
その手をとってあたためてくれる細い指のぬくもりに。

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by matsumotoakatsuki | 2009-12-15 09:38 | 日々のこと
チューハイをひと缶買ったらビールもふた缶飲めた話
日曜日、連れのお姉ちゃんに野菜をもらった。彼女の畑でとれた白菜やねぎやいろいろ。連れと受け取りに行ったら、ふたりで持ちきれないぐらいで、ふたりでは食べきれないぐらいの量だ。
とってもありがたい。

うちによく遊びに来るこーちゃんとぴーちゃんは、毎回と言ってもいいぐらい野菜やらなんやらをおみやげに持って来てくれる。もらいすぎて申し訳なくなるぐらいもらってる。

いろんなものをいろんなひとからいただいてしまう僕らは、せめてお返しをしようとするのだけど、お返すスピードを追い抜いていただきものがこちらにやって来てしまい、時々僕は不安になってしまう。もらった分だけひとにあげられていない。

お姉ちゃんのところから野菜を持って帰る途中、スーパーでチューハイを買い、公園のベンチで飲んでいると、落ち葉の清掃をしているおじさんたちがいた。公園の4本のケヤキがそこらじゅうしきつめた落ち葉を、ほうきで集め、ゴミ袋につめこんでいる。

連れが落ち葉の山に手を突っ込みたくてうずうずしていたので、おじさんたちになにかお手伝いできることはありませんかと話しかけた。
「ありがとう、大変助かります、軍手と袋はほら、あっちにいっぱいあるから使っていいから。」
というわけで僕らふたりはおじさんたちにまじり、公園の落ち葉拾いに参加することになった。

ベンチに座って見ているだけではわからなかったけど、おじさんたちは落ち葉を効果的にゴミ袋に入れるため、さまざま道具を発明し、使用していた。

a0145596_1235740.jpgひとつがこれ、段ボール箱で作られた入れ口。
クリップで袋に付ける。
これのおかげで、ゴミ袋の口がへなへなと閉じることなく、
しゃっきり開かれたままになるのでとっても落ち葉を入れやすい。

a0145596_1241258.jpg砂場に積もった落ち葉を集める時は、ふるいが効果を発揮する。砂を落とさないとゴミ袋に集めた時落ち葉が重くなりすぎるのだ。砂場の角の部分に渡したパイプの上でやると、少ない力でむりなく砂をふるうことができる。使う時のこつは一度に網の部分に落ち葉をのせすぎないこと。

なんでもひとは工夫して発展させるんだなぁと、連れとふたり感心しきり。おじさんたち手製のこれらの道具も、落ち葉拾いを始めた初期には存在しなかったはず。作業全体にゆっくりとすこしずつ改良を加えて、いまのおじさんたちがあるんだろう。人類の数万年の歩みもこんなもんなんだろうなぁ。

僕らが手伝い始めて10分もしないうちに、人類発展の歴史の最先端に位置するおじさんたちは休憩を始め、僕らもビールやおつまみを振る舞われた。参加した早々で休憩とはちょっと気が引けるけど、おじさんたちは気にせずお酒をすすめてくる。
「今日は何時頃からやってらっしゃるんですか?」と聞くと、「2時ぐらいからかなあ」とひとりのおじさん。時計を見ると今3時だ。一時間働いて酒盛り休憩ってすてきだ。連れはお酒をあんまり飲まないから、僕がふたり分飲むことになる。ビール2缶飲んだ所で、休憩終了、いい気持ちで作業再開。

a0145596_1231053.jpg休憩後は一時間みっちり落ち葉を集めた。僕は主に砂場担当だった。ふるいを使うのは以外と力がいるので、若い者が引き受けた格好だ。段々と集中力が増し、速やかに動けるようになってくる。おじさんたちはやはり疲れて来たのか、「もうきりがないからこれぐらいでいいよ」と終息をさぐってくる。僕がひとりではりきりすぎておじさんたちに迷惑をかけても意味がない。小山のように積まれたゴミ袋を集積所へ運び、おじさんたちにお別れする。

以前僕は所持金3万円で、ニューデリーからマンチェスターまで陸路で行こうとしたことがあった。しかも8ヶ月の旅程を考えていた。とても普通のやりかたではお金が続くはずがない。インドで普通に使えば1ヶ月たらずで3万円はなくなってしまう。物価の高いヨーロッパでなら2週間もつだろうか。
ニューデリーを出発するとき僕が思いついた解決策は、持ってるものでひとにあげられるものはなんでもあげてしまうということだった。

それからは行く先々で出会うひと出会うひとに思いつく限りのものをあげた。本をあげ、ネックレスをあげ、時計をあげた。寒い地方へ旅行するひとに会えばダウンジャケットをあげ、そのマフラーかわいいねといわれればその場ではずして差し上げる。ペシャワールでは使わなくなったショルダーバッグを日本人にあげ、イスタンブールではシヴァ神が浮き彫られたフラスコをイタリア系アメリカ人にあげた。
ハンガリーでは街角でバスキングして稼いだ金を全部使い、安宿の仲間たちにビールをふるまった。オーストリアでもその日の上がり15ユーロで材料を買い、家に泊めてくれた友人に料理をふるまった。

目的は荷物を軽くするためじゃない。
3万円ぐらいの金なら、節約してもどうせすぐなくなる。それをちまちまと惜しむぐらいなら、与えられるものをありったけ与え、巡り合わせの力を引き寄せるしかないと思った。

この世は、与えることによって成り立ってる。交換はこの世を維持することには役に立つかもしれない。けれど、命を巡らせることには役立たない。命は与えることでしか生まれない。

自分の命は親から無条件に与えれたもので、なにか取引をして受け取ったものじゃない。自分の最も根底を支えているものは、すべて与えられたものだ。それは世界中一人残らず変わらないし、全ての生き物についても同じだ。動物が食いあうことは、生きる力を与えあうことだ。人間も例外じゃない。与えることは自分の命のあり方を肯定することであり、世界を動かすエネルギーにみずから力を送り込むことだ。
だから僕は与えるしかないと思い、それを実行した。

僕はその旅行中、持てるものを与えられる限り与えるという決断を、一度も疑うことはなく、細胞ひとつ残らず懸けてその正しさを信じてた。そして、さまざまな、ほんとにさまざまな出会いに助けられて、旅程を達成した。

冒頭に書いた、僕の不安の種。現在ひとから与えられるほどにひとに与えていないという気持ち。端的に言えば生きることができなくなる道を歩んでいるということだ。それは恐い。

その日は公園から帰って、もらった野菜で鍋を作り、デザートには長野のおじいちゃんからいただいたりんごとマンションのおとなりさんがおすそわけしてくれたみかんを食べた。我が家のささやかながら大きな自慢は、毎日ごはんを食べ終わるたび、ふたり心から「ごちそうさまでした」と手を合わせられること。

与えあう循環のなかで暮らしを成り立たせることが必要だ。そういうつながりを手に入れ、仕組みとして定着させることが、今後の日本社会で僕のような人間が生きる道になるんだろうなと思ってる。


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by matsumotoakatsuki | 2009-12-11 12:27 | 日々のこと

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