このあいだ、ひさしぶりにロードオブザリングを観ました。
3部ともエクステンデッドエディションです。
一時期、好きな映画は?と聞かれると、
「ハムナプトラ2とロードオブザリング!」と答えてました。
わぁすごいなあと思うような、
びっくり映像が好きです。
でも僕の中で、ハムナプトラ2とロードオブザリングは決して同列には並びません。
僕はロードオブザリングの原作、「指輪物語」が大好きだからです。
ハムナプトラシリーズは見るたびに、
主人公のブレンダン・フレイザーは首が太すぎるなぁとか、
顔つきがちょっと脂っこすぎるかもしれないという気持ちにもなりますが、
基本的にびっくりと笑い以外の部分では、
僕の人生には関わってきません。
「指輪物語」はちがいます。
小学生のころからの付き合いです。
なので、映画化されたロードオブザリングを初めて観たときは、
涙が止まりませんでした。
よくぞここまでエネルギーとお金をつぎ込んで映像化してくれた!
という感動です。
小学生のころの自分に見せてやりたかったとも思いました。
ああ、ガンダルフ本人が出演してくれたんだな、とか、
馳夫さんが実際に踊る小馬亭の酒場に座ってるところを撮影したんだな、とか、
全編そうこれこれと思いながら楽しめました。
映画としては弱点もたくさんありますし、原作との違いも多々ありますが、
それでも全部許そうという気持ちにさせてくれる出来だと言い切れます。
いまのところまだ「あんな映画化ならしないほうがよかった」
という原作ファンには会ったことありません。
でもこうも思います。
映画版は小学生の自分には見せない方がよかったのかもしれない。
なぜかというと、イメージが固定化されてしまう恐れがあるからです。
実際、映画版を観てからは、原作を読んでも頭の中では、
フロドはイライジャ・ウッドだし、レゴラスはオーランド・ブルームだし、
ということになりました。
原作者のトールキンは、挿し絵というものに対して慎重だったそうで、
「『谷』という言葉を読んだとき、
子供は自分の経験と想像力のすべてでその『谷』を思い描く。
挿し絵はその自ら生みだす想像力の広がりを限定してしまう。」
という感じのことを言っていたそうです。
そう言う意味では、映画のイメージ固定力の強さは半端ないものがありますね。
示されないからこそ想像できる面白さ、というのが薄れることになりそうです。
ウィザードリィというRPGシリーズがあります。1981年に第一作が発売された、コンピューターRPGの古典といわれるシリーズです。
ドラクエを作ったのは、このゲームの大ファンだった人たちでした。
(写真はファミコン版のウィザードリィ2)
このゲームの最大の魅力は、
世界観が丁寧に作り込まれていないところです。
やることといったら3D迷路を延々深く奥へと潜っていくだけ。
ドラクエのような壮大な物語や、FFのような緻密で派手な演出は一切なし。
自分があやつるキャラクターがどんなひとかも、よくわかりません。
だからファンは勝手に想像を広げて楽しみます。
特に設定が決められていないなら自分の好きに決めてしまえ、という気持ちです。
不当にその想像を制限されるような機能を、オールドファンは好みません。
そういえば、言語学者の外山滋比古はその著作「修辞的残像」で、
「われわれは、ものごとが欠けていることを意識すると
それを補おうとする力が本能的に働くもののようである。」と書いていました。
なんだか、あまり親しくない片思い相手の性格や趣味を
あれこれ想像してしまうことに似てますね。
次回(想像力と波形エネルギーの関係などの話)に続く
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壁に映った忍び寄る影の服はホントは何色だろう?