マイナスとプラスのファンタジー→→
(ブレンダン・フレイザーの首が太すぎて、
ガンダルフのイアン・マッケランは当たり役だと思う話の続き)
言語学者の外山滋比古は、くわしく描かれないことが逆にかき立てる想像力について、
「それは二点のあいだの欠如を補充しようという、
より普遍的な人間の理解作用の一つのあらわれ方である」と書いています。
さらに、外山さんはその描かれない空白こそが、ものごとの理解に重要だと言います。
たとえば、片思いの相手を週末のデートに誘ったとします。
すると相手は「誘ってくれるのはうれしいんだけど。。」
と言いづらそうに口ごもります。その「。。」がこの場合の空白です。
大人なら言外の意味を察知しなければいけません。
「ああ、なにか大事な用事があるんだな」と。
彼女(彼)が「またそのうち次の機会に。。」とあやまってきたら、
「気にしないで。また誘うね」と一旦引き、いつか巡ってくる
彼女(彼)が空いてる日をおだやかな気持ちで待ってあげてください。
たとえその日がいつまでもやってこないとしても。
ひとは言葉と言葉の間にある空白を読み取ることができます。
この言い尽くされない空白は、ことさら口ごもらなくても、
すべてのものごとに存在しています。
僕のパートナーのしずかは、よく麦チョコやKIT KAT、TOPPOといった
色々なお菓子をおやつにもぐもぐ食べています。
おやつの時間は生活のなかに「断片的で、点在しているに
すぎない」(外山滋比古)し、食べている商品の種類も様々なのに、
それを毎日眺めている僕は、
ああ、しずかはお菓子のなかでもチョコレートが好きなんだなぁ、と
彼女の好みに一貫性を発見します。
ひとは、空白のなかにあるいくつものばらばらの点をつなぎあわせて、
ひとつの意味の線を作り上げることができるようです。
こういった意味を結びあわせる能力は「素朴な話であるが、
人間の眼がマバタキをしていても、ものが切れ切れになって見えたりしないで、
つながって見えること」にもあらわれていると外山滋比古は言います。
つまり僕らはものごとを空白と共に把握できないと、デートの誘いを
断られたことを逆恨みし、ひとの食べ物の好みさえ覚えられず、
まばたきをするたび、ストロボがたかれたように目の前がチカチカして
コマ送りのように見えてしまうことになります。
空白の理解がものごとの理解に欠かせないことは、外山さんによると
「われわれの理解がつねにマイナスの面をふくんでいて、
決してプラスの連続ではないことを象徴している」そうです。
言い換えると、無と有の響きあいにより
僕らの認識というのは成り立っているようです。
ここまできてやっと
前回の記事とつながるんですが、
作りこまれたドラクエよりも、スッカスカのウィザードリィのほうが想像力を
強く刺激してくれる理由は、
ひとが世界を感覚するやりかたに
より深く根ざしているからなのかなぁと思います。
プラスの力とマイナスの力が繰り返されながら
異なる点同士をある一定の流れで結んでいくというかたち、
それは波の動きに似ています。
外山さんも「―うねり上げ、高まり、やがて、崩れ、また、つぎの波の底部になる―」
という波を、「自然の中にある起承転結のリズム」と呼んでいます。
(画像はイメージです)
プラスとマイナスの交響により拡大していく想像力と
それが持つ波型のエネルギーの流れ。
ここからがいよいよ本題の、僕がしずかに、ことあるごとにくどくどしく語り、
いいかげんうんざりされながらも提唱している生命エネルギー理論、
波理論についてです。
でも、長くなったので、
次回(待機電力しかかかってない時でも
電化製品たちは黙ってるわけじゃないぜという話など)に続きます
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