ビハール、ビハール→→
仏陀も2000年前に同じ眺めを見たんじゃないかと思えるような、ビハール州の典型的農村地帯。
草原を通り抜け舗装された道路へ入ると、直進せよの矢印が目に飛び込んでくる。
荷台から振り返ると、来た道は一筋に遠ざかり、視線を移せば、行く道は果てしなくひたすら伸びていくように見えた。
ブッダガヤーまでは国道を走れば2時間ほどの距離でしかないのに。
ブッダガヤーに着き、アシュラムにドゥワルコ・ジィをたずねる。
農村でお世話になった学校は彼のアシュラムの系列だったからだ。
テラスのテーブルに向かい合って座ると、ドゥワルコ・ジィはおだやかにほほえみながら開口一番こう言った。
「君の生きる目的はなんだね?」
彼と会うのは今回が2回目だ。といっても前回は農村に向かう前、ほんの5分ほど話しただけだった。
そんな相手にこんな質問をされて僕は驚くよりも笑顔が先に立った。
それから言葉を選びながら返事をした。
「生きる意味というのはもしかしたらないのかもしれません。けれど、すべての生き物はこの世の生命の輪から力をもらわずには生きていけません。それなのに、生命の輪から生きる力をもらうばかりで返すことをしないのなら、僕は泥棒になってしまいます。だから僕がやらないといけないことは、その生命の輪に生きる力を送り返すことだと思います。僕は詩を書くので、詩を通じてそれができたらそれ以上うれしいことはないです。」
ドゥワルコ・ジィはほほえんだままだった。やがて右手の人差し指を立て、
「ひとつだけ、私につけくわえさせてもらえるかな。」と言った。
「人は自分の魂の輝きを高めるために生きるんだよ。」
彼は「君が詩を書くのなら、いい本がある」と立ち上がり、部屋に入っていった。戻ってくると手に1冊の本を持っていた。
「ガンジーは『道に迷った時、必ず私はギータを読み直した』と言っていたんだ。」
次の日にはパトナーに出発しようと思っていた僕は、予定を変更し、インド最古の叙事詩バガワッド・ギータをドゥワルコ・ジィのもとで学ぶことにした。
学んだと言っても、毎日8時間近く本に向かい、一通り読み終わった所でジィの話を聞いたという程度だけれど。
ギータに書かれていたのは献身ということ。
それから、ひとは誰もが自分のやらなければならないことをやらなければならないということ。
ドゥワルコ・ジィは、ガンジーの弟子のひとりのヴィノバ・バーベの弟子だったから、僕はガンジーの自称孫弟子だ。いや、スレッシュ・ジィはドゥワルコの生徒だから、僕はガンジーのひ孫弟子かな。
先日、映画「ガンジー」を見てそんなことがあったなと思い出したのでした。
※「ジィ」はインドで目上のひとを呼ぶ際につける尊称です。日本語の「さん」よりも尊敬の度合いは強いです。